1960年代の仁侠映画で目にした刀というのは、現代の血なまぐさい活劇の中において、全くといっていいほど、役に立たないツールと化し、チンピラがナイフをちらつかせた瞬間に、拳銃が炸裂して、頭蓋骨ごと粉砕されるというヤクザの殺し合いを描いた物語の現実は引き金を引くところからスタートするはめになりました。北野武監督第1作目の「その男凶暴につき」でもラストシーンは、殺し屋と我妻の拳銃の打ち合い合戦のような展開になりますが、両者共に隠れたり、身を翻したりすることなく、殺し屋は壁に持たれながらひたすら撃ち続けます。我妻もそこにテクテク歩きながら、パンパンパンと規則正しいリズムで、向かっていくわけですが、このように死んでもかまわないというような態度で、殺し合いをするわけですから、逃げも隠れもしないのは、当然のことかもしれませんが、観客としては脳の回転がヒートアップするかのごとく緊張の渦に巻き込まれます。

そして静かに標的を一気に仕留めたいと目論む白龍演じる殺し屋が、いつも手にしていたのがナイフでした。まずは映画の冒頭で薬の売人の腹を刺し、それを10回ほど繰り返すという暴挙に出ますが、「ソナチネ」でも小僧と呼ばれるようなチンピラがヤクザの腹を容赦なく刺したり、「HANA-BI」でも西はナイフを持った若者に素手で立ち向かうという、どれも狂気の沙汰とも捕らえられるような世界です。

小学生が使うようなカッターナイフでも身近な凶器になるんだという認識は、一つの恐怖心の現れですが、この誰でも持てると言うところに刃物の真の武器としての素質が凝縮されると言うことを考えると、北野武が映画に刃物を登場させたという点は、斬新な発想であったと言えます。

拳銃は、恐ろしいものですが、拳銃が主役になると、死ぬ人間が増えるので、自ずと大掛かりな設定にしないとつじつまが合わなくなりますが、アウトレイジシリーズのようにリアルなヤクザ社会を表現するには、拳銃は欠かせません。しかし死の恐怖に焦点を絞ると、拳銃では命が軽く扱われ過ぎて、痛さが全く伝わってこないという理不尽な結果に終わる事もあるので、迫力だけに焦点を絞る事は、得策とは言えません。そこが北野武のなせる技ともう言うべき、視点の返還です。つまり常にナイフを携帯しているようなクレイジーな人間は、人を殺すことに抵抗がないとでも言うように、キャラクターにターミネーターのごとく殺戮を繰り返すのが自己の役割であるという設定事態が凡人には真似のできない一つの芸と言えます。

例えば「座頭市」で敵方がピストルを出してくるシーンにしても、その前の段階で市の凄まじい連続斬りにより、敵方の子分はバタバタと倒れ行くわけですが、これら一連のシーンにおける斬りのスピード感は、ピストルの弾をも寄せ付けない雰囲気を醸し出しており、あっという間に一味を滅ぼすという息を呑むほどの展開に導かれます。