「座頭市」のラストでもし市が殺される設定であったら、更なるランク付けがされ、暴力映画としての素質が垣間見れたことは間違いありません。しかしそこをあえて、ハッピーエンドにすることによって、血なまぐさい男と男の泥仕合が重みを増すという、独特の北野演出が冴え渡り、全体的にはプラス要素に転じる結果となりました。北野武は、突発的に生き続けるはずだった自分の役を、「死ぬ設定にする」と現場で脚本を塗り替える為、スタッフはその度に躊躇するわけですが、「その男凶暴につき」の我妻は、生き伸びても、ストーリーの骨組みは変わらない訳ですから、北野は瞬時に辻褄合わせに対する問題の解決を判断している事が分かります。

現場でストーリーを変えてしまうという北野の行動に慣れてきた北野組のスタイルは、「ソナチネ」の時点で完成されていました。「ソナチネ」の現場で北野武はメモをとりながら、撮影を進めましたが、テレビの仕事で培った現場の感覚と言うものを知り尽くしているからこそできる一つの技であり、映画に対する保守的な考えがゼロに近いと言うことも、撮影現場の変革に成功した素因であると言えます。

脚本の段階で、主人公が死ぬ設定であった「HANA-BI」や「BROTHER」は、生きることの痛みを痛切に実感できる内容の作品であるため、主人公の死は桜が散っていくような余韻を残し、日本人独特の美意識が痛烈に響き渡ります。また自己に向き合った結果と運命がうまく絡み合って、「その男凶暴につき」、「3-4X10月」、「ソナチネ」での散り行くさまとはまた違った風味を醸し出しています。死という一つのビジョンは、「TAKESHIS’」の中で時限を越えた表現形態と相まって、北野映画がジャンルを持たない異質な媒体の中に同化しているという事実を見出せます。

そもそも外国での北野作品のイメージは純粋に美しいという、全ての固形芸術を右脳で察知するヨーロッパ人からの熱狂が高じたことに単を発していますが、死という過酷な現実が、意外な美しさを倍増させていることも北野武の自由表現の受け入れを許容させているということも言えます。それだけにアウトレイジシリーズなどのジャンルムービーにも死の恐怖と言うものは色濃く反映され、「アウトレイジビヨンド」の観客動員数は29万人を突破しました。この時点でようやく北野武の質が一般的に浸透し、認知されることにはなりましたが、寝ても冷めても北野自身の中に眠る死に対する過剰な喪失感は、独特のブルーフィルムによって、美との競演を果たしています。

それではもし北野作品全てにおいて、死という結末が存在しなかったら、各々の作品自体の方向性にどのような影響を及ぼしていたのでしょうか。まず「その男凶暴につき」については、最後に我妻が頭を撃たれるというインパクトは、強烈なものがありますが、そこで撃たれていなくとも自らが悪の手下に成り代わってしまうと言うパターンもあったわけで、ストーリーの骨格に影響はありません。「ソナチネ」も同じようにラストで幸と車でどこかへ走り去ると言う画も寂しさの情景の中には存在しえたのではないかとも考えられます。