第62回ヴェネチア国際映画祭に「TAKESHIS’」が出品された際に、キタニストと呼ばれるフランスの北野武の映画マニア達が「映画の神様」と日本語で書かれたパネルを掲げていましたが、黒澤明=日本映画の代表という図式が徐々に北野武へと移行し、時代秩序を前面に押し出した黒澤明の面影はモノクロの幻想風景のごとく片隅に追いやられた感はあります。黒澤明は75歳で製作した「乱」以降、「夢」、「八月の狂詩曲」、「まあだだよ」などの最晩年の作品群は”偉大なる失敗作”とマスコミに揶揄されました。とくに「八月の狂詩曲」は黒澤ファンや評論家の中からも「あいまいな抽象表現多い」と批判的な意見が相次ぎました。

これはいわゆる、芸術を意識した結果の悪循環ということが言えます。映画を見る人の大半は、美しいものを見たいのではなく、脳を揺さぶるような興奮を求めているのであって、日常からスクリーンの世界にいかに入り込み、そこで展開する異次元の人間模様であったり、秩序と矛盾の落差で裏をかかれるような快感も含めて、刺激に対する波長のバランスがいかに狂う事無く、1時間半ないし2時間前後という一定の時間内で納得させてくれるストーリーに出会えるのかが重要になってくるのです。

それらの定義から見ると黒澤明の失敗というのは、芸術面では○となりますが、娯楽作品としての価値は低く、お金を払って映画館に運んだ人達からすると、脚本のプロットが分かりにくいとか、キャラクターや台詞が時代に合っていないなど、不満要素の方が大きくなってしまいます。

北野武の作品群の中では「TAKESHIS’」、「監督ばんざい」、「アキレスと亀」が芸術映画とみなされ、無駄を省かない、台詞が多すぎる、画面が暗い、感覚が若者向きじゃないと言った批判が相次ぎました。しかしこれは北野武の秩序的な寄り道であり、芸術一辺倒ではなく、根本的な娯楽志向に変化はありません。

それはアウトレイジシリーズでも証明されていることですが、単なる娯楽ではなく、リアリズムを持ったある種のドキュメンタリー的な側面を持ち、サプライズを併用すると言う彩色豊かな風味を出すことに成功していることを考えると、北野武の70歳の作品、75歳の作品に対する期待が否応なしに膨らんでいきます。徹底した演出志向の黒澤か柔軟性のある指導タイプの北野か、どちらが本当の映画の神様に相応しいのか、現時点で占うことは困難ですが、固唾を呑んで見守る以外に道はありません。

ただ北野武は間違いなく巨匠ですから、言ってみれば終われる立場にあり、また多くの映画監督に影響を与えていることから、北野映画の類似作に悩まされることも多くなります。日本中の映画作家を目指す若者は、北野武の映画にインスピレーションを受け、美の追求に励むわけですが、続々と世に映画が出てくることを考えると、映画作家としての自立を追及するには、強固な熱意と努力が必要になってきます。