2005年の「TAKESHIS’」、2007年の「監督ばんざい」を発表した時点で、フランスやイタリア、ロシアでは北野映画に対する評価はさらに上がり、芸術祭では功労賞を授与されるなど、海外での確固たる地位を確立していきました。「HANA-BI」や「DOLLS」は季節感を出したことにより、芸術的な美学を根底から再構築していますが、夏を描いた「3-4X10月」、「ソナチネ」などの作品は、季節的な感覚が無に近く、懇々と進むストーリーはまるで夢の中にいるようです。

ところが「菊次郎の夏」のように子どもの夏休みに大人が介在して、遊びほうける姿は、季節感を感じますが、砂浜で菊次郎が天使の鈴を振る際の描写は、非常にロジカルで夏の暑さを忘れさせるような空間表現の拡大に成功しているため、映画的な目線は客観的なモノに従事しています。

「その男凶暴につき」も非常に簡素的な映像作品であり、我妻が歩道橋で殺し屋とすれ違うときに白い息を吐いていることから、真冬である事が分かりますが、我妻がコートを着ていないというのは、ある種の抽象的な香りを放出しているという見方もでき、刑事を辞めて美術館でシャガールの絵を鑑賞する場面でも、シャガールの絵は一瞬映るだけなので、ドライ感はさらに増して行き、殺し屋の怨念めいた殺意がラスト5分で暴発し、我妻の応酬は敵にひるむ事無く、ロボットのようにゆっくりと歩き、殺し屋と対面して、冷静に射殺すると言う、さらにキャラクター対キャラクターのニヒルなぶつかり合いが印象的に描かれています。

映画にとって季節の趣を同化させることにおけるメリットは、ストーリーによって異なりますが、「HANA-BI」は暴力と恋愛が一つのビジョンとして形成されているため、ある種の中世的なシネマとして、イタリアで、フランスで、アジアでも言葉の壁を乗り越えた革新的な作品であると言えますが、落ち葉のシーンも雪のシーンも決してそれらを強調することなく、一つのプロットしての提示がなされていることから、ロケーションの中に出てくる高層ビルも富士山も、お寺も含めて「その男凶暴につき」と共通したシンプルな画面作りに徹した北野組の努力がうかがい知れます。

季節感のないショットは一つの群像を形成していき、北野武の映像作品が更に卓越した状態へと押し上げられました。しかしそれは、人から影響を受けたものではなく、北野武が生まれ持った感性と季節に対するドライな愛着が織り成す和の精神でもあり、総合的な美へと導かれました。

ただ基本的に北野武の冷めた目線というのは、「その男凶暴につき」から徹底されており、それが逆に美学における神秘性や詩的なエモーショナルを生み出しているわけですが、それらに基づく一つ一つのプロットは、実体験であったり想像力から派生する生きた現実となって、スクリーンに投影されています。結果季節感を意識した造形美術の中に、それらを超越した感覚が存在し、更なるリアリティーを生むと言う相乗効果が存在しています。