2003年の「座頭市」は国内外からの評価は非常に高く、世間的に見ると北野武の映画はジャンルムービー化されていくのではないかという危惧がありましたが、そのことを最も恐れていたのが北野本人でした。娯楽要素の強い本作品には「アウトレイジ」が続いていくという流れも十分有り得ましたが、2005年に発表した「TAKESHIS’」はフェデリコ・フェリーニの世界観にも通じる、非常に難解な前後のプロットが早い頻度で入れ替わると言う、特殊なストーリーであったため、日本の観客は困惑し、インターネットでも最低評価を下されるなど、興行収入は3億円に留まり、日本での評判は散々なものでした。

しかしこの手の作品は、二度、三度と見返すうちに中毒性が出てきて、気がつくと病み付きになると言う、カルト性があります。その理由として、複雑に入り組んだストーリーが頭の中で徐々に単純化されていき、存在する事象の原因と結果の結びつきが明るみになり、更なる筋書きの真実を追求をしたいという精神状態に変わっていきます。それらのプラス要因に感激したヴェネチア国際映画祭の実行委員は、この「TAKESHIS’」を特別出品作として招待し、映画祭当日までマスコミには一切上映の事実を流さないと言う異例の措置がとられました。

賞を受賞するまでには至らなかったものの、ヴェネチアの街をいい意味で混乱に陥れた本作品は、2007年9月にアメリカでもDVDが売り出され、現在まで4つ星を獲得しています。北野自身が語る「受け入れられないことは分かっている」という言葉に反して、日本でもじわじわと「TAKESHIS’」に共感する映画ファンが増えていきました。

ただ「あの夏、いちばん静かな海」や「キッズ・リターン」、「DOLLS」に見られる2人組みの脇役の存在というものは、ある種の隠し味になっており、主人公が人生の岐路を下るに連れて、彼らは上昇していくと言う対比が、功を奏していますが、「TAKESHIS’」は妄想と夢が交差すると言う特殊な環境化において、アイコン的な要素として太った2人の男を登場させています。

北野武は「TAKESHIS’」によって、観客を混乱させながらも、貫禄を見せ付け、北野映画のスケール感はぐっと広がりました。暴力と次元的な風がこの作品から漂い、「わからない」=「知りたい」という欲求を人々の脳髄に発生させると言う新たな世界観が誕生しました。「TAKESHIS’」公開から10年が経過しようとしていますが、キタニストの間からはすでに傑作であるとの呼び声が多数を占めるようになりました。

ただ「TAKESHIS’」の構想は1990年代から存在しており、次元や夢の不連続性という奇異な世界観は、長い間温められてきました。ただこのような抽象表現に挑戦するということは、北野武が職業監督としての自立を意識したということも大きく、また普遍性の追求と言うことも大きな課題ではありましたが、「TAKESHIS’」の評価は年を追うごとに高まってきています。