1997年の「HANA-BI」で世界中に北野武の名が轟き、その年インタビューで語った「将来的には秀吉を撮りたい」という一言により、黒澤明の「影武者」や「乱」のようなスペクタクル巨編に北野が挑むなど、もっての他であると吐き捨てた評論家たちは、2013年の「アウトレイジビヨンド」を見て、ある種の可能性を見出したのではないでしょうか。ようするに北野武はマニア路線からの脱却を図り、「座頭市」や「TAKESHIS’」、「監督ばんざい」を経て、徐々に大作を作るための骨組みは固まってきているように見受けられます。

「ソナチネ」と黒澤明の「羅生門」はある種、同調的な波長があり、北野武の思い描く豊臣秀吉像は、そのまま詩的な「御法度」のような物語に終始するのか、動的映像美へと発展するのか、興味深いところではありますが、どちらにせよ、北野のキャリアからすると、秀吉の物語は、最晩年にお披露目されるという気運が感じられます。北野武は、一本の映画を作るごとに、エネルギーを飛躍させ、自己の中の活動力を完全燃焼させる時期を探っているのではないでしょうか。

そうでなければ、「座頭市」や「アウトレイジビヨンド」などのエンターテイメント大作は撮らないはずです。もちろん北野武は一作目から貫いてきている抽象表現による雰囲気の作り方や即興的な演出技法は、健在ですから100%エンターテイメントに従事すると言うことはありません。詩的感覚を維持しながら、エネルギッシュな新しい空間作りの模索は70歳を超えても続いていくはずです。

ある意味その対極にいるのが、壮大なスケール感覚という意味でディズニーを上回る宮崎駿のアニメーションが挙げられますが、北野武の総合芸術家としてのプライドは強固なものであり、今後の発展次第では早い段階で、壮大なスケールとまでは言わないまでも、独特の世界観を持った大作に取り組む可能性もあります。

北野武はヨーロッパや中東を圧制するも、ジョン・ウーのようなアメリカンテイストに肩入れする事なく今日までその地位を築き上げてきましたから、マニア路線を走り続けていては、アメリカへの本格的な進出は困難になることから、詩的情緒的な「DOLLS」のような路線を歩むのか「座頭市」のような分かりやすさを追求するべきなのか、北野本人の葛藤は続いていきます。しかしアウトレイジシリーズによって、ある種の垣根は壊されましたので、今後どの方向を目指すのかは、メディアのみならず、映画ファンは固唾を呑んで待ち構えている状態です。

ただ処女作の「その男凶暴につき」から徹底して、映画=娯楽という考え方に変化はないので、全ての作品について言えることは、ありきたりな企画は一本もないということです。非常にきめ細かい工夫の連続で成り立った「HANA-BI」も事故前に撮っていれば、もっと暗い雰囲気の作品になっていた可能性もありますし、「ソナチネ」が「BROTHER」として、アメリカ資本で再生された事も含めると、北野武は常に上昇志向の渦の中で、うごめいているとも言えます。