通常、人物をカメラで撮る時に、首から下だけを撮ることはありません。必ず頭があって体があるという自然法則の秩序を守らないと、不自然になるからです。ただ北野武は、そういった伝統芸のような手法を自ら解析し、どんな撮り方をしても、ストーリーと画の美しさとバランスを崩すことなく、画期的な構成へと導く技量があるので、自ずと展開は無駄の無い抽象的なカラクリへと発展していきます。

例えばアウトレイジシリーズのヤクザ同士の、ののしり合いは、漫才の会話のパターンと符合しているため、リズミカルで恐怖の中にも、音楽と同じような響きが冴え渡るので、ストーリーに引き込まれていきます。またそういったテンポの中で発展していくストーリーは、北野独特の抽象世界へと導かれ、蓋を開けてみれば、綺麗な起承転結に組み分けられると言う、いかにシンプルであったかということを思い知らされます。

北野映画の中でも特異とされる「あの夏、いちばん静かな海」での抽象感覚は、一種のドキュメンタリーであり、詩であると同時に、印象が脳裏に焼き付いて離れないという現象が起こります。これはまず台詞の無い男女が主人公であるために、海の音が実にリアル響いてくるという、ある種のシンセサイザーミュージックのような機械仕掛けのごとく、新鮮なリアリズムを醸し出しています。

音楽が無い「3-4X10月」の青年と恋人がビルに、タンクローリーで突っ込むという衝撃的な描写も、頭を整理すると、クライマックスの花火のような位置づけであることから、音楽的であったということに気づきます。よって、物静かで淡々と進むストーリーの中には必ず、北野独自の静寂が脳に刺激を与え、その先の先まで展開を観客自らなぞってしまう様な混乱に苛まれます。

北野はこの作品でトリノ国際映画祭で特別賞を受賞し、新聞の小さな記事になりましたが、相変わらず日本の中ではアウトロー的な存在であった為、興行収益をあげる事には苦戦を強いられました。しかし「Bolling Point」として海外でお披露目されたわけですが、無駄を根こそぎカットするという荒業は、むしろ抽象表現大国イタリアでこそ、歓喜されるべき手法であったと言えます。

その10年後の2001年の「DOLLS」で完全にヨーロッパを圧制したキタノブランドの勢いは留まるところがなく、同作品において翌年のダマスカス国際映画祭での最優秀作品賞受賞を皮切りに、点は線となり地球をまたぐような格好になりました。2005年の「TAKESHIS’」ではさらに抽象模写を発展させて、キュビズムのごとく、プロットをばらばらに配置するという、フェリーニのような世界観を前面に押し出していますが、この作品は第62回ヴェネチア国際映画祭でシークレット上映と言うかたちで特別招待作品として公開され、注目を浴びヨーロッパでの人気に拍車をかけました。日本での評価は良くありませんでしたが、北野の名はニューヨークにも轟き、抽象表現の受け皿が広い欧米での評価は上がりました。